将棋・棋界に対する誤解4 コンピューター将棋は本当に名人を超えたのか?
まず最初に「超えた」「超えていない」を論ずる場合、基準の明示なくしては、その判定をすることは不可能である。
単純に勝敗なら、対プロ棋士の勝率から、すでにタイトルホルダーを超えている可能性が高い。
しかし、将棋の勝敗は、将棋を楽しむ上での1つの視点に過ぎない。
もちろん、それは非常に重要な視点ではあるが、それと同等以上の視点もあるということである。
以下の考察は、トップのプロ棋士や、トップのコンピューター将棋を対象としたものです。
対局の面白さ
プロ棋士 ソフト
プロ棋士 ◎ ◎
ソフト ◎ △
「対局の面白さ」に関して、プロ棋士が絡むと面白いが、ソフト同士だと、その面白さがガクンと落ちる。
今やソフトがプロ棋士の実力を凌いでいるにも関わらずである。
対局のドラマ性
プロ棋士 ソフト
プロ棋士 ○ ◎
ソフト ◎ △
まずは、盤外要因として、「対局のドラマ性」が挙げられる。
心を持たないソフトと違って、プロ棋士は背負っているものが大きいため、観戦者は感情移入をしやすい。
特に電王戦は、ソフトの凄まじい計算能力に対し、人間の代表としてのプロ棋士が知性を駆使して対抗するため、様々なドラマが生じやすい。
対局の希少性
プロ棋士 ソフト
プロ棋士 ○ ◎
ソフト ◎ △
さらに、電王戦は年に5局、リベンジマッチを入れても6局のため、その希少性から注目を浴びやすい。
棋譜の美しさ
盤外要因は電王戦が有利だが、盤上の棋譜では、プロ棋士同士の棋譜の方が優れている。
なぜならば、指し手には流れがあり、棋譜には美しさというものがあるからだ。
ソフトの場合はいくら強くても、人間から見ると理解しがたい手が生じることがあり、それは今後解明すべき課題ではあるが、片っ端から読んで決めた指し手よりも、意図して指した人間の指し手の方が、人間が将棋を学んだり、楽しんだりするのには、重要だということである。
電王戦の場合は、美しい棋譜が生じることもあるが、ソフトの序盤の不自然な指し手から、人間の終盤でのミスにより、一気に終盤で逆転したり、ソフトが負ける時は、序盤から完封されたり、極端な展開も生じやすい。
棋力バランス
序盤 中盤 終盤
プロ棋士 ◎ ◎ ○(△)
ソフト ○(△)◎ ◎
ソフトの棋譜が美しくなりにくい大きな要因は、序盤・中盤・終盤のアンバランスさにある。
序盤がぎこちない指し手でも、終盤の腕力で勝ちさえすれば、そのソフトが強いことには変わりない。
しかし、それは美しい棋譜とは言い難い。
感覚的な問題とはいえ、人間の有段者か、それに近い棋力であれば、言いたいことは分かってもらえると思う。
だからこそ、ソフトの制作者の中には、ただ強いだけでなく、美しい棋譜を残したいと思う者がいるわけだし、人工知能という観点からしても、人間の思考に近づけたいと思うのは、ごく自然なことではないかと思う。
なお、プロ棋士の終盤に(△)としているのは、時間に追われたり、疲労や思い込みなどによるヒューマンエラーが生じるからです。
ソフトの序盤に(△)としているのは、時間の長い将棋ですと、かなり序盤の指し手が自然になってきましたが、苦手な戦型となると、不自然な指し手になりやすく、自然な指し手の場合も定跡を使っている場合は、純粋にソフトの指し手とはいえないからです。
そして、「対局のドラマ性」「対局の希少性」「棋譜の美しさ」の3つを考慮すると、最初の「対局の面白さ」が成り立つというわけです。
以上の考察から、ソフトがすべてに渡って人間を超えているわけではないので、視点によって、その優位性が入れ替わることになります。
強さ ソフト>人間
対局 人間>ソフト
終盤研究 ソフト>人間
解説 人間>ソフト
対局相手の強さだけを求めるのなら、ソフトですが、対局して楽しんだり、強くなりたい場合は、「棋力バランス」の関係から、人間との対局の方が優れています。
終盤の研究をしたいのなら、ソフトは非常に有用なツールになりますが、感想戦をしたり、指し手の解説を聞く場合は、人間の方が遥かに優れています。
ですから、今後コンピューター将棋の指し手がどこまで自然になるか、棋譜解析や解説機能がどこまで発展するかは、プロ棋士の強さを超えた現在であっても、大きなテーマであり、今後楽しみにしたいと思います。
それと同時に、まだまだ人間には、ソフトにはない様々な長所がありますから、プロ棋士は今後も人類の知性の代表として、たとえソフトに敗れたとしても、ちっぽけなプライドを守るために醜態をさらすのではなく、もっと大きな視点に立って、堂々とその優れた能力を活かした活動をし、ソフトとの共存共栄を果たして欲しいものです。